今日の芸術 2022

art curator 岡本かのんのブログ

大正乙女の女学生文化

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 女学生とは明治より始まった日本の旧制の女子学校教育の女学校の生徒のことである。江戸期以前の封建社会のもとでは、女性に学問は必要なく、家を守っていればよいと考えられていたため、寺子屋などでの初歩的なものに限られていた。明治期に入り女子に対する教育が広まるようになると、女学生は封建主義の色濃かったなか、新たな女性像のひとつとして教養ある女性層を代表する存在だった。文明開化の息吹とともに、一種の都市風俗を表すものとして定着したとされている。

 女学生の登場には、近代的女子教育の導入が必要だった。明治3年(1870)からフェリス女学院などの私立女学校や官立女学校といった女学校の設立が相次ぐ。明治32年(1899)に高等女学校令が公布よって高等女学校が制定され、女子の進学率が急速に上昇、女学生の存在が一般化していくことになる。

 当時の高等女学校の教育理念はいわゆる良妻賢母主義である。夫、舅、姑、 子どもという家族関係を規定していくこととなる。明治維新による西欧化とともに、江戸時代の『女大学』の理想的イメージが基礎となっていた。一方、近代的な西洋文化の発信源となったミッション系女学校にはリベラルな校風が多く見られ、官立の女学校よりも文学・音楽・美術などに力を入れている場合が多かった。このためミッション系女学校は、多くの少女たちの憧憬、羨望の的となった。思春期の少女たちが同性のみで寄り集まる女学校という特異な場では、女学生たちに求められた教養文化と、時代の大衆文化・モダン文化とが結びつき、独自の“女学生文化”が生まれた。

 国語教育と近代小説の普及は、女学生に小説読書の習慣をもたらした。明治末期から大正にかけて、女子の進学率の増加に呼応して少女雑誌が次々と創刊していき、これらを通じて全国の女学生が女学生文化を共有するようになる。いわゆる“文学少女”の類型が生まれたのもこの頃である。女学生たちには、可憐でロマンティックなものが好まれ流行した。大正から昭和の初め、女学生文化が最も華やいでいた当時の彼女たちが愛した雑誌がある。多くの少女雑誌が発売される中、二大人気雑誌は『少女倶楽部』と『少女の友』だった。発行部数で群を抜いていた『少女倶楽部』は、主に小学校高学年から女学校低学年を対象とし、地方の女学生が多く購読した。少女小説や童話の他、受験の心得や時代物など内容は多彩だった。一方『少女の友』は、女学校高学年までを視野に入れ、よりロマンティックなものを掲載し、少女歌劇の特集をするなど、抒情性豊かで繊細な誌面構成となっており、都市部の女学生に強い支持を受け、女学生の必需品といわれるまでに愛読された。情報源の少なかった当時、様々なブームがこれら少女雑誌から生み出される。美しいカラーイラストや人気作家の少女小説に読者は夢中になり、掲示板コーナーや読者集会では読者同士の交流が深められた。女学生には読書好きが多く、さまざまなジャンルの作品が読まれたが、特有のものは、少女向けに書かれたいわゆる少女小説で、多くの少女たちが胸を躍らせた。

 多くの女学生にとって、親しい仲の相手との手紙のやりとりや贈り物による交際は、非常に重要なものであった。友達関係、エス、恋愛、将来の進路などの心配があった。特に親しい上級生と下級生の関係はエス(sisterhood)と呼ばれ、とりわけ親密で擬似的な姉妹関係で清らかで美しい精神的な絆として持て囃された。少女小説においてもロマンティックに描かれ、女学生文化として広がっていった。雑誌ではこの愛をテーマにした小説は非常に人気があった。

 明治期、女学生は、教養ある女性を代表する存在で、時代風俗の象徴として注目されていたが、そのスタイルは変遷を極めた。明治18年(1885)に学習院女子で女袴が採用され、この女袴をお茶の水女子大学が採用したことで流行し、女学生の袴姿は数年のうちに全国的に普及することになり、明治30年代半ばに定着した。大正時代には女袴と革靴を履くスタイルがハイカラな女学生の定番となった。

 大正初期から婦人問題が社会の注目をひき、女性教育の導入とともに、女性の生活が変わり、楽しみも悩みも変化した。新たな時代の女学生には、新たな日常、 将来への希望にあふれていた。

 

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