今日の芸術 2022

art curator 岡本かのんのブログ

芸術鑑賞 光琳と宗達の《風神雷神図屏風》

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風神雷神図屏風
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 江戸時代を代表する画派として琳派という人たちがいる。狩野派、土佐派など血縁や師弟関係でつながる画派とは異なり、私淑によって同系統の技法・画風、作品群を残した俵屋宗達尾形光琳酒井抱一などの総称である。それぞれ俵屋宗達(17世紀前半)、尾形光琳(17世紀前半〜18世紀前半)、酒井抱一(18世紀末〜19世紀前半)と活動期間が100年ほど間があり、互いに直接の面識があるわけではない。ただし、光琳宗達と一緒に活動していた本阿弥光悦の親戚であり、家に宗達の絵が多くあったため、見ることが出来た。また、光琳の活動拠点は京都であったが、江戸に出稼ぎに来ていた際に酒井家に仕えており、子孫の抱一は家に代々伝わっていた光琳の絵を見る機会があった。琳派は自由に画風をリスペクトして自らの絵に取り入れたものであり、派閥があったわけではなく、自ら名乗っていたわけでもない。琳派という名は後世の時代に名付けられたため、どこまでを琳派とするのかの定義は曖昧である。

 俵屋宗達尾形光琳の《風神雷神図屏風》の類似性については内藤正人『風神雷神図屏風展図録』(出光美術館、2006年)にて2枚の絵を重ねて見られる構成で、光琳宗達の絵を丁寧にトレースしつつ、自らの独自性を打ち出していると述べている。両者を比較してみると、その描写は光琳本が宗達本の表現内容を骨組みにおいて忠実に踏襲する一方、細部の描写にはかなりの相違がみられることがわかる。これが、光琳以降の琳派絵師が先人の作品を模倣する際に必ず行う、独自の新解釈である。伝統の踏襲と新たな創造への挑戦が、琳派絵師たちが自らに課した大きなテーマである。古画の模倣にあたっては決して忠実な再現に終始することなく、そこに必ず自らの解釈を取り入れて古画をアレンジして仕上げ、単なるき写しには終わらせない、古画の学習とその再生を同時に果たす、琳派の絵師たちの作画のあり方を示す。たとえ後継者を自称する画人たちが隔世の師への挑戦を繰り返してみても、結果的には尊敬する先輩を凌駕するのは並大抵のことではない。

 また新たな説として、奥井素子「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の模写工程の考察」(2010年)、「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の考察 : 光琳の改変を読み解く」(2010年)では、『北野天神縁起絵巻』(以下、絵巻)が光琳本の下絵として使用されたと述べている。しかし、絵巻に描かれているのは雷神のみで風神は描かれておらず、光琳本の風神が宗達本の風神に酷似している件についての説明はない。奥井素子氏の説には、風神の下絵の発見が必要となる。また、宗達が絵巻を見た可能性もあるため、絵巻の雷神と宗達本の比較も必要と考える。よって当該論文は、やはりまだ可能性の一つであり、内藤正人氏の図録の説が優位と見る。

 

参考文献

辻惟雄編『カラー版日本美術史』(美術出版社、1991年)

内藤正人『風神雷神図屏風展図録』(出光美術館、2006年)

奥井素子「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の模写工程の考察」2010年

奥井素子「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の考察 : 光琳の改変を読み解く」2010年