今日の芸術 2022

art curator 岡本かのんのブログ

芸術鑑賞 ティツィアーノ《ウルヴィーノのヴィーナス》

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ウルヴィーノのヴィーナス
(約1500文字・購読時間1分50秒)

題・《ウルヴィーノのヴィーナス》(1538)

作・ティツィアーノ・ヴェチェリオ(1488-1576)

 ルネサンス様式の豪華な宮殿を背に、向かって頭を左、足を右にして、裸の女性が寝台に静かに横たわっている。右肘をまくらのようなものに付き、上半身をやや持ち上げている。下半身は両脚を伸ばして閉じており、右膝をやや曲げ、左足の下に潜り込ませている。右手に薔薇の花束を持ち、左手は画面中央に陰部を隠すように置かれている。頭部は首を曲げ、顔を正面に向け、柔らかな薄い笑みを浮かべ、見る者の方を真っ直ぐ見ている。

 髪は金髪でウェーブし、つやつやと輝き細く、ふわりと肩にかかっている。肌は白く、若い女性らしく滑らかで張りと弾力があり、美しい面立ちとしなやかな肢体に反して、下腹部には膨らみがある。全裸でアクセサリーのみを身につけており、右手首に宝石を散りばめた太いゴールドの腕輪をはめ、陰部を覆う左手の小指には指輪をはめている。左耳には大粒のパールのピアスをしている。

 敷かれたシーツは乱れてしわが寄り、ヴィーナスの胸の下あたりでめくれ上がり、その下からバラ模様の赤いマットレスが覗いている。その下の赤いバラ模様のマットには赤いバラの花が一輪落ちている。女性の足元、向かって右奥に白と茶色の毛をした子犬が丸まって寝ている。

 後景は構図が左右に分割されており、左側は衝立に緑のカーテン、右側はルネサンス様式の宮殿で裕福な貴族の家の洗練された室内が描かれている。右側の部屋には侍女が二人おり、一人は白いドレスを着てカッソーネといわれる婚礼道具の長持ちの蓋を開けて中を覗き込んでいる。もう一人は白と赤のドレスで腕まくりをして立っており、青色と金色の縞柄の豪華なドレスを肩に担いでいる。さらに奥の窓に銀梅花の鉢植えが一つあり、外には樹木と空が見える。

 左の二の腕、右足の膝から下、右肘の置かれている枕の側面、シーツの陰、奥の部屋にいる立っている侍女の影の様子から左上後方に光源があると思われる。特にヴィーナスに視線がいくように光が当てられている。

 制作された当時、ヴィーナスは愛と美の女神とされ、艶めかしく美しい裸体を絵画化したものが《ウルヴィーノのヴィーナス》である。右手に持つバラはヴィーナスのアトリビュートで愛を表し、ヴィーナスの足元で丸くなってうずくまる子犬は、夫への貞節を示す。また、窓辺の銀梅花は常緑であることから、永遠の愛、特に夫婦間の忠節の象徴であるとされた。後景の腕まくりをして立っている侍女は、青色と金色の縞柄のドレスを肩に担ぎ、前景にいる全裸のヴィーナスに着せようとしているように思われる。この青と金は、ウルビーノ公国のデッラ・ローヴェレ家の紋章の色である。カメリーノ公国のジュリア・ヴァラーノがデッラ・ローヴェレ家に嫁いだことを示唆しているともとれる。

 兄弟子ジョルジョーネによる《眠れるヴィーナス》と、同様の構図で制作した作品であるが、ティツィアーノのヴィーナスは寝具の上で悩ましくその体をくねらせていた温もりが伝わってくる。寝台にかけられているシーツや枕には乱雑で、艶めかしいしわが寄っており、ベッドメイクされたものではないと見える。官能的に描かれた絵を見た、新婦は夫婦生活について感化、教育され、婚姻と花嫁の果たすべき夫婦間の役割を教られるだろう。つまり、結婚した当時11歳と若い花嫁ジュリア・ヴァラーノへの性教育の意味も込めた結婚の贈り物と考えられる。《ウルビーノのヴィーナス》は、グイドバルドとジュリアが真の夫婦になったことを祝う祝婚画であるとともに、豊穣・多産の女神ヴィーナスにあやかって、子宝に恵まれるようにという、子孫繁栄を祈念した絵であるといえる。

 

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列島考古学 文字文化の定着-弥生から古代まで-

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金錯銘鉄剣
(約1800文字・購読時間2分20秒)

弥生時代

 紀元後3世紀中頃までにあたる縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代で、日本の移動史が大きく変革するきっかけとなった時代でもある。大陸から北部九州へと金属器や水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州・四国・本州に300~400年近くかけて広がったと考えられている。日本に移り住んできた人々が、水田稲作を元にした集落を作り、その技術を縄文人も受け入れていった。

 弥生時代の集落の中の人々の間に差が生まれた原因のひとつとして、水田開発をはじめとする共同作業が挙げられる。水田農業に必要な治水、灌漑といった共同作業のために、ムラと呼ばれる共同体が成立し、それを統率する長があらわれた。水稲農耕の知識のある者が長となり、その指揮の下で稲作が行われた。長が収穫物を管理したり、稲作の儀礼を司るにつれ、人々を支配する権力を持つようになる。人々を支配する人、小さなムラを支配する大型化した有力なムラが登場し、支配する人々に富が集中していった。これは、墓や副葬品に変化が現れてくることから伺える。やがて、大規模な労働力が必要とされるようになり、大型化したムラの間には、戦いが発生したとされる。結果として各地に小さなクニが生まれた。これらは争い統合しながら王が誕生する。

 中国ではすでに古代王朝が成立していて、後漢の歴史書の中で交流があったことが触れられている。奴国という小さな国が現在の福岡県博多市付近に存在しており、1世紀中頃に、金印が贈られた。これは日本のひとつの勢力が、中国の王朝とはじめて外交交渉を持った記録である。金印に刻まれた、漢委奴国王の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かる。

古墳時代

 前方後円墳が盛んに造られた時代で、3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳ヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。対外関係は、4世紀以降朝鮮半島に進出し、倭が朝鮮半島で得た鉄が、甲冑、武器、農具に用いられた。また、大陸から、文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。『日本書紀』と『古事記』には、『論語』10巻、『千字文』1巻を献上したと記されている。埼玉古墳群で最初に造られた大型古墳である稲荷山古墳は、銘文が刻まれた全長73.5センチメートルの《金錯銘鉄剣》が出土した。計115文字の銘文が刻まれている。この銘文は古墳時代の刀剣に記された銘文としては最も長文で、内容も日本の国の成り立ちに関係することが含まれている。ここにはヲワケ・オオヒコ・ワカタケルなどの人命やシキといった地名が、のちの万葉仮名と同じように漢字の音をかりて表記されていることが注目される。 倭人は、日本語を漢字によって表記する術を獲得していった。ほぼ同時期の熊本県江田船山古墳出土の鉄刀銘とともに重要な同時代資料である。

古代

 飛鳥時代草創期は古墳時代大和時代の終末期と重なるが、現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する飛鳥の地に、この時代の政治、文化の中心があったので、この時期を飛鳥時代とよぶ。7世紀半ばに孝徳天皇難波宮で行われた大化の改新により倭国から日本へ国号を変えたとされている。広義の飛鳥時代は、大和国家が統一的中央集権国家、天皇律令国家へと飛躍した時代ということになる。大陸へ使節を派遣し、文化や仏教が日本に流入した。6世紀の中ごろ百済から仏教が伝えられたことはその後の日本文化に影響を与え、日本で最初の仏教文化が誕生した。そのほか、漢字、儒教など中国の学術、文化の影響にもみるべきものがあった。漢字を用いて国語を表記するいわゆる万葉仮名も考案使用されるようになり、日本語を漢字で表現できるに至った。聖徳太子が仏教を尊信し法隆寺を建立するなど、仏教の興隆に伴い写経が盛んになり、飛鳥時代には書道は急速に発展した。日本の書道は百済よりの六朝書道から始まるが、遣隋使を派遣するなど、中国文化が直接日本に将来されるようになり、隋唐の書の影響が現れるようになる。聖徳太子の自筆とされる『法華義疏』4巻は六朝風であるが、『金剛場陀羅尼経』が唐風であるのはその変遷の好例である。『法華義疏金石文を除いた現存する書跡では日本でもっとも古い。太子自らの熱心な仏教布教活動は、全国に写経の習慣を広めることになる。

 

参考文献

・佐々木憲一ほか『はじめて学ぶ考古学』有斐閣、2011年

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列島考古学 移動する生活から定住する暮らしへ

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(約1700文字・購読時間2分10秒)

 日本列島における旧石器時代から縄文時代への移行は、自然環境と人類文化の両側面に見られた歴史的画期と言うことができる。この変化は、全球的な大規模気候変動期である氷期から温暖期への移行期に相当する。およそ2万年前の旧石器時代の平均気温は現在よりも5-7度低かったと考えられている。地球は最終氷期といわれる時代の中でももっとも気温の低い時代にあたっており、陸は巨大な氷河に覆われていた。寒冷なだけでなく、海水が減り、海面は今よりも100メートルほど下がっていたため、日本列島に当たる地域は北は大陸と陸続きだった。旧石器時代の人々は食糧を求めて移動を続けていた。 洞穴で暖をとったり、木や枝を組合わせた骨組に覆いをかけた程度の簡単な住まいで、食糧となったのはナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型動物だった。生で食べるか、石焼または石を使って蒸し焼きにするか、燻製にしていたと考えらる。

 1万5千年ほど前から寒暖を繰り返しながら温暖な気候へと移行する。気候の温暖化により氷床が溶け、海面が上昇し日本海は拡大した。また関東地方も、陸地の低いところが海に沈んでゆき、関東平野の奥まで海が入ってきた。魚貝類の生息に適した内海が現在の海岸線沿いに生まれ、水産資源も豊富になるため、生業に漁労が加わるようになる。氷期が終わって温暖になると、日本海に暖流が入り込むようになり、冬の雪の量が増え、日本海側では、ブナの森が発達した。大型動物は姿を消し、動きの素早い小型動物が増殖、狩りの対象は、シカ、イノシシなど中型で動きのすばやいものに変わった。また、湿潤温暖な気候の下で森林植生が発達し、植生も寒冷な植生から、落葉広葉樹林帯が広がる温暖な気候に変化していく。狩猟・採集・漁撈からなる多角的な定着的生活構造が安定する本格的な縄文社会が列島全体で成立する。

 1万2千年ほど前の縄文時代の初めに、土器という新しい道具が作られるようになり、調理の方法は大きく変わった。土器は、水を入れて火にかけることで、お湯を沸かせるようになり、鍋料理、煮物ができるようになった。煮る、ゆでる、アク抜きするなど、さまざまな用途に使うことができる。これによって、それまで食べられなかった落葉広葉樹のクリ・クルミ・トチなどの堅果類も新たに食料となった。また、生食や焼いていたケモノの肉を土器で煮炊きできようになった。

 縄文時代は、植物、海産資源の利用が活性化し、定着的な生活行動が促進されるようになる。温暖な気候になり植物も多く自生するようになったことから、人々は旧石器時代と同じく食物やケモノを求めて移動を続けるが、その行動範囲も狭くてすむようになり、ついには一か所に定住し、ムラを営むようになった。地面を円形や方形に掘り、家の骨組みを作り、土・葦などで屋根を葺いた竪穴式住居が登場する。約7千年前頃までには定住化が進み、旧石器時代のような長距離にわたる徒歩移動はほとんどなくなっていった。さらに竪穴住居の中央に炉が備えられるようになり、その後の生活の基盤となった。

 海外では、およそ1万年前の温暖化という気象の変化に伴う自然環境の変化に適応した人類が、農耕・牧畜を行うようになり、この時代を新石器時代と呼ぶ。氷河が後退し森林地帯が発達したので、この環境に適応するために生れた。西アジアと東アジアに起源をもつとされ、農耕生産がその基底をなす。一定期間の定住に伴う住居の改善と集落の形成し、磨製石器が普及し生産段階が牧畜・農耕へ移行する。野生動物を捕らえ飼育し増やすことによって、必要な時に食べられるようにする牧畜や、食用植物を選別し栽培する農耕が始まり、家畜の解体や土地の開墾に摩擦石器を用いた。

 日本の縄文時代は海産資源や山林資源が豊かで、海外より早く定住化が進んだ。しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、植物、海産資源が豊富であったため海外のように牧畜や農耕がそれほど発達しなかった。農耕や牧畜文化も発見されていないため、世界的にみる新石器時代とは異なるものとされている。

 

参考文献

・佐々木憲一ほか『はじめて学ぶ考古学』(有斐閣、2011年)

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列島考古学 旧石器時代における細石器の特徴とその製作上の効率性

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(約800文字・購読時間1分00秒)

 細石器とは、打製石器の一種で、小型かつ刃の特徴を持つ石器である。日本国内では一般的には旧石器時代後期に分類される。木や骨角の軸に数個はめこんで、ナイフ・槍・鎌として用いた。日本列島の旧石器時代の最終に現れたのが、この細石器を使った細石刃文化である。本州でこの文化のもっとも古い年代は静岡県休場遺跡の14,300年前で、終末は12,000年前にむかえた。北海道では約2万年前といわれている。この文化の存続期間は短かった。縄文時代の草創期まで存続した可能性が高い。この細石刃文化期の遺跡は、全国で500個所を超え、特に遺跡密度が高いのは北海道と九州で、近畿地方では遺跡数が極端に少ない。石材は黒曜石、砂岩、チャート、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩など、その地域で利用できる岩石が用いられた。

 この文化は、細石刃核の形態や製作技術に地域的な変化が顕著であり、それが特徴である。 北海道の細石刃核は、湧別技法として知られる白滝型・札骨型・峠下型・蘭越型、忍路子型、幌加型、射的山型、紅葉山型などに類別される。この湧別技法やその影響を受けた細石刃剥離技術は、津軽海峡を越えて山形県新潟県茨城県など東北地方の北半分まで拡がっている。 白滝型、札滑型と呼ばれる2種類の細石刃核は、原材料の黒曜石などの原石を半月形または木葉形にし、これを両面から加工し 10cmほどの大きさの両面加工の母体を作る。この長軸方向に剥離を加え、平行に平らな面を作り出し、細石刃を剥離するための打撃面を用意する。こうして調整した石核の端に打撃を加え細石刃を剥ぎ取っていく。

 一方、西北九州を中心に、福井型と呼ばれる細石刃核が存在する。このほか南九州を中心に畦原型が知られる。 野岳・休場型細石刃核は、関東・中部地方から九州までの広い地域に広がっており、円錐形、半円錐形、角柱状などの形をしている。 また、船野型細石刃核も宮崎平野、大野川流域から近畿南部、東海を経て中部南半分、南関東まで広く分布している。これらは二面の作業面を形成しやすい技法である。

 

参考文献

・佐々木憲一ほか『はじめて学ぶ考古学』有斐閣、2011年

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江戸の歴史 近代化の地盤づくり

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(約900文字・購読時間1分10秒)

 江戸時代とは日本の歴史のうち江戸幕府の統治時代を指す時代区分である。期間は慶長8年(1603年)に徳川家康征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立してから、慶応4年(1868年)に慶応から明治に改元されるまでの265年間である。幕藩体制という政治体制をとっており、政治・経済・文化思想の各面で、世界史上でも独自の発展がみられた時代であった。なかでも近年の研究により新たな見解が出てきた、参勤交代、鎖国士農工商について考える。

参勤交代

 3代将軍家光のときに参勤交代が制度化されたが、8代将軍吉宗は江戸が首都の体をなしていなかったからだとし、参勤交代により領地と江戸を往復する大名は江戸に藩邸を持つことから、首都を整備する政策として参勤交代制度を認識した。全国約260の大名が江戸に参勤交代をすることで、長い年月をかけ江戸一極集中といえる状況が生まれた。幕府の統治機能や江戸の首都機能、経済基盤が整備されるにつれ徐々に上方からシフトし、江戸が日本の中心になった。

鎖国

 幕府は近世国家の確立を図るために、寛永16年(1639年)から嘉永6年(1853年)にかけて、相いれないキリスト教の布教禁止といった方針のもと、対外交通、貿易を制限し、日本人の渡航を禁じ、取引国を段階的に制限していった。徐々にすべての貿易を幕府の統制下に置いていくことにより、日本独自の文化と国内産業の発達を促した。しかし、完全に国を閉ざしていたわけではなく、長崎、対馬、薩摩、松前の4つの外交窓口を開き、幕府の管理下で交易が行われていた。

士農工商

 本来は広くあらゆる職業の人々を指す言葉で、民衆、みんなといった意味で使われていた。近年の研究成果により、江戸時代には単純に士農工商という言葉で身分を分類していなかったということがわかった。上下関係や支配・被支配といった関係はなく、対等なものだった。

 このように、江戸時代から列島社会の均質化は始まっていた。統一権力、鎖国体制のもとで、国家が社会を管理する制度・システムがえ江戸時代を通じて整備・強化されている。その延長線上に明治維新があり、近代日本があると考えられる。

 

参考文献

大石学『新しい江戸時代が見えてくる-「平和」と「文明化」の265年-』(吉川弘文館、2014年)

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