今日の芸術 2022

art curator 岡本かのんのブログ

京都の歴史 平安京遷都

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 平安京遷都は、天皇はもちろんすべての貴族・豪族達も移動させるという大規模なものである。政治と仏教の分断、人心の刷新などが考えられる。奈良の平城京では都を平城京から移さざるを得なかった深刻な問題が起きていた。古くからの勢力が幅をきかせ政治が乱れていたことである。古くからの勢力の1つは、仏教勢力で、平城京では仏教は国によって手厚く保護されていたが、そのうち僧の道鏡など力を持つようになった僧の中で政治に介入し始め、天皇の座につこうとする事件も発生し、政治が大混乱する事態となった。問題になったもう1つの勢力は、奈良を根城にする豪族たちで、彼らの支配する土地は朝廷の権限が及びにくくなっていた。朝廷が力を取り戻すためには、こうした豪族たちを本拠地から切り離すことが必要だった。そこで桓武天皇は、古い勢力が根を張る奈良の平城京を離れることで政治を一新しようとした。奈良末期の混乱した政治状況下で、桓武天皇天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図で延暦3年(784年)に平城京から長岡京を造営して遷都し、その9年後の延暦12年(793年)、再遷都を宣言する。

 新都建設地の選定に密かに入った桓武天皇は、延暦11年(792年)の1月と5月に、狩猟をよそおって、候補地のひとつ山背国葛野郡宇太村を訪れた。『日本紀略』には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇勅語が残っている。山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に宮と京を合わせた全体が東西約4.5キロ、南北約5.2キロの規模の都市が計画された。新都市建設計画、遷都計画が動き出すと同時に長岡京の取り壊しが始まり、遷都にあたって山背国は山城国と改められた。

 平安京の計画の大枠は基本的に中国の隋・唐の長安城を手本としたものであり、長安を模した日本の平城京を踏襲したものでもある。同様に長安城を手本とした平城京はまだ過渡的要素が多かったので、平安京のほうがずっと整ってきている。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には大極殿が作られた。その後方の東側には天皇の住まいである内裏が設けられた。内裏を挟んで北に大蔵の建物があり、南に太政官民部省式部省などの役所がある。政治を行う朝堂院を中心にして国の役所が建ち並ぶ区域を宮といい、その外に貴族を含めた人々が集まる街区が設けられ、これを京といった。長岡京同様、ここでも官寺である東寺と西寺を除き、新たな仏教寺院の建立を認めなかった。尚、大内裏の中で唯一、真言院という仏教施設があるが、空海の力による特別な施設と見られる。

 それまでの都は十年から数十年という短さだったが、平安京とその後身である京都は、その後も千年以上という永い間、日本の首都であり続けた。これほどの長期間、ひとつの文明の中心として地位を保ち続けた都市は世界でも珍しいものである。

 

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