今日の芸術 2022

art curator 岡本かのんのブログ

二つの岡本太郎美術館・記念館から見る、目指すべき美術館の姿

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(約3200文字・購読時間4分00秒)

 同じ岡本太郎(以下、太郎 1911-1996)の名を冠していながら、違った展示方法、イベントが行われている、川崎市岡本太郎美術館岡本太郎記念館を、博物館法第二条に定められている規定の中から、収集、展示・教育の観点から調査し、それぞれの施設の設立の経緯と岡本太郎の思想と合わせて考察する。さらに施策の違う両施設について事例をあげながら未来の美術館の方向性を見出す。

思想と経緯は以下の通り。

 

岡本太郎の思想から本項に関係するもの

・芸術は公共のものであるべきということ

・無垢な子供が描く絵は素晴らしい

 

設立経緯

川崎市岡本太郎美術館(以下、太郎美術館)

太郎所有の作品352点が母かの子(1889-1939)の故郷である神奈川県川崎市に寄贈されたことに端を発する

岡本太郎記念館(以下、太郎記念館)

秘書・養女であった岡本敏子(1926-2005)の「岡本太郎を次の時代に伝えたい」と願う情熱。

 

 欧米では寄付の文化が国民に強く広がっており、美術品の寄贈や金銭の寄付がある。大英博物館は収蔵品は多くが個人の収集家の寄贈、大英帝国時代の植民地から持ち込まれたものも多い。太郎は「作品は大衆の物で誰の目にも触れる場所にあるべき」という思想のもと、生前、個人に作品を売ることはほとんどなかった。倉庫や個室のような閉鎖された空間で一部の人の目にしか触れないことを嫌ったからである。晩年、手元にあった大量の作品は母の故郷である川崎市に寄贈され、太郎美術館が建設された。一方、生前、自宅件アトリエであった太郎記念館は生前の太郎のアトリエがそのまま残されており、制作途中の絵も置いたままになっている。いずれも設立に当たっては無償で作品がもたらされたものである。

 美術館を知識がある前提で行くものという思考があり、日常から遠ざけているのではないだろうか。太郎美術館はとにかく物々しい。交通機関も乏しく、行こうと決めて行かないといけない雰囲気がある。また、中も薄暗く、撮影禁止など制約も多い。(2020年時 2021年より撮影が全面解禁された)暗い館内や美術品の撮影禁止はフラッシュによる作品の劣化や違法な複製を防ぐためなどの理由は考えられるが、太郎の思想にそぐわない。一方、太郎記念館は作品の撮影はもとより、触れることも自由である。庭に《歓喜の鐘》が設置してあり、木槌で叩いて音を鳴らしたり、《座ることを拒否する椅子》に座ることができる。また、敷地内の記念館の手前にカフェがあるため、青山という立地も相まって気軽にいける雰囲気がある。美術館と併設されたカフェは少ないくないが、多くは館内を見終わった後に行ける設計になっており、太郎記念館のように先にカフェに入れる施設は珍しいのではないだろうか。

 このように書くと太郎美術館にいいところがないように聞こえるが、そんなことはない。まず、中学生以下は入場無料という点である。子供が入場無料というのは、教育面と、若いうちから芸術が日常であることを染み込ませる意味で、重要になるだろう。海外の有名な博物館、美術館は子供が入場無料というところが多い。そして子供向けのワークショップも行っている。学校の教室で太郎の作品と触れ合える教材の貸出しを無料で行っている。美術館訪問にあたっての事前・事後の学習だけでなく、幅広い授業で活用できる。また、中学生・高校生向けに職場体験プログラムを実施している。美術館での仕事の実体験を通して、そこで働く人や来館者と接し、美術館の持つ役割や目的、機能を知ると共に社会的なルールやマナーを学べる。他にも出張プログラムと称して授業時間や交通の関係で来館が難しい学校や、異なる学年による行事としてのイベント、体験学習、ワークショップなどを美術館と協力して行いたいという学校向けのプログラムである。また、コロナ禍の非常事態宣言下ではバーチャルミュージアムと称してWebサイトから館内の様子を歩いて見ているかのような体験をすることができた。これをきっかけに太郎美術館へ興味がわいた人もいるかもしれない。これらは太郎記念館の規模ではできないことだろう。

 施設を訪れるハードルの高さはオーケストラのコンサートや歌舞伎、ミュージカルなども同様の思考が働いていると思われるが、これらは近年、演目でアニメ、ゲームなどが原作のものを頻繁に取り上げており、若い世代を中心に大きな反響を得ている。10年ほど前、国立のメディア芸術施設の設立が検討されたが、TVなどのオールドメディアで国営漫画喫茶などと揶揄され、中止に追い込まれた。現在、日本文化の象徴たりうるアニメのセル画や、漫画の原画などが海外の競売で高額取引されている。これは由々しき事態である。自分達の文化の素晴らしさを認識していないということになる。江戸時代に浮世絵が大量に刷られ、梱包材として海外に流出しジャポニズムを巻き起こした歴史がまた繰り返されようとしている。当該計画の再考を説に願う。

 また、SNSで話題になっている森美術館は直近では「塩田千春展:魂がふるえる」「未来と芸術展」「PIXARのひみつ展」「進撃の巨人展 FINAL」などが撮影自由だった。SNS拡散を狙って、撮影自由の展覧会をしているとインタビュー記事で述べている。(*1)特別・企画展はテレビ局が主催の場合はCMを大量に流したり、特別番組を放送したり、会場のガイド音声に有名人を使ったりと、客を呼び寄せるために色々やっているが、ビジネスの印象が拭えない。テレビCMや交通広告の物量作戦やSNSでのバズりは一時的に人の目を引くことは可能だが、流行りが去ればすぐに別の話題に移ってしまう。常設展はそもそも魅力的な作品が少ない、収蔵品が少ないなど、全てにおいて特別・企画展の逆を行っているため、同様の方法は使えない。ミーハーな国民性と大量な広告投下による流行ってる感により、教科書に載るような有名な作家、作品の特別・企画展には来館者が殺到する傾向がある。残念ながらこういった施策では一過性のもので終わってしまい、芸術を楽しむ心を育むのは無理だろう。

 博物館法第二条(*2)によると「資料を収集し、保管し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関」とあるので、「調査研究・収集・保管」の優先順位が高く、「展示・教育」は優先順位が低いということが考えられる。そもそも公的な機関として利益を出すことが認められていないため、慢性的な予算、人員不足は死活問題である。しかし、博物館の役割と非常に似ている「種の保存」、「教育・環境教育」、「調査・研究」、「レクリエーション」を4つの役割として上げている日本動物園水族館協会(*3)は、動物園や水族館で家族向け、カップル向けなどの施策をうち、とても訪れやすい施設にしようとしている努力が伺える。博物館、美術館の利用者向けの施策として参考になる。

 以上のことから、「芸術の日常性」と「子供の教育」が今後の美術館のキーワードになると考える。撮影可能な作品点数を増やすことは利用者がSNSなどでの拡散により目に触れる機会が増え、日常的に美術・芸術に触れることにつながり、施設へ足を運ぶハードルを下げる環境を整えることになる。また、子供が美術館への入場無料というのは、本質的に美術に興味がある人の分母を増やすことに繋がり、長期的に見ると有効である。教育面と、若いうちから芸術が日常であることを染み込ませることが重要になる。さらにワークショップはその両方を兼ね備えていると言える。連休や週末に行ったり、学校単位での参加、時には美術館側から出張することもいいだろう。

 

参考文献・URL

『文化の「肖像」-ネットワーク型ミュージオロジーの試み』吉田憲司 著(岩波書店

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『美術館の可能性』並木誠士・中川理 著(学芸出版社

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『新時代の博物館学』全国大学博物館学講座協議会西日本部会編(芙蓉書房出版)

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川崎市岡本太郎美術館20年 展覧会の記録 1999-2018』(川崎市岡本太郎美術館、2019年)

岡本太郎記念館の20年』平野暁臣 編集(小学館、2019年)

(*1)森美術館SNS運用、インスタ映えを狙わない戦略とは? 話題となった展覧会を成功に導いた舞台裏

https://markezine.jp/article/detail/31172

(*2)博物館法

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=326AC1000000285

(*3)日本動物園水族館協会

https://www.jaza.jp/about-jaza/four-objectives

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大正乙女の女学生文化

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(約1800文字・購読時間2分20秒)

 女学生とは明治より始まった日本の旧制の女子学校教育の女学校の生徒のことである。江戸期以前の封建社会のもとでは、女性に学問は必要なく、家を守っていればよいと考えられていたため、寺子屋などでの初歩的なものに限られていた。明治期に入り女子に対する教育が広まるようになると、女学生は封建主義の色濃かったなか、新たな女性像のひとつとして教養ある女性層を代表する存在だった。文明開化の息吹とともに、一種の都市風俗を表すものとして定着したとされている。

 女学生の登場には、近代的女子教育の導入が必要だった。明治3年(1870)からフェリス女学院などの私立女学校や官立女学校といった女学校の設立が相次ぐ。明治32年(1899)に高等女学校令が公布よって高等女学校が制定され、女子の進学率が急速に上昇、女学生の存在が一般化していくことになる。

 当時の高等女学校の教育理念はいわゆる良妻賢母主義である。夫、舅、姑、 子どもという家族関係を規定していくこととなる。明治維新による西欧化とともに、江戸時代の『女大学』の理想的イメージが基礎となっていた。一方、近代的な西洋文化の発信源となったミッション系女学校にはリベラルな校風が多く見られ、官立の女学校よりも文学・音楽・美術などに力を入れている場合が多かった。このためミッション系女学校は、多くの少女たちの憧憬、羨望の的となった。思春期の少女たちが同性のみで寄り集まる女学校という特異な場では、女学生たちに求められた教養文化と、時代の大衆文化・モダン文化とが結びつき、独自の“女学生文化”が生まれた。

 国語教育と近代小説の普及は、女学生に小説読書の習慣をもたらした。明治末期から大正にかけて、女子の進学率の増加に呼応して少女雑誌が次々と創刊していき、これらを通じて全国の女学生が女学生文化を共有するようになる。いわゆる“文学少女”の類型が生まれたのもこの頃である。女学生たちには、可憐でロマンティックなものが好まれ流行した。大正から昭和の初め、女学生文化が最も華やいでいた当時の彼女たちが愛した雑誌がある。多くの少女雑誌が発売される中、二大人気雑誌は『少女倶楽部』と『少女の友』だった。発行部数で群を抜いていた『少女倶楽部』は、主に小学校高学年から女学校低学年を対象とし、地方の女学生が多く購読した。少女小説や童話の他、受験の心得や時代物など内容は多彩だった。一方『少女の友』は、女学校高学年までを視野に入れ、よりロマンティックなものを掲載し、少女歌劇の特集をするなど、抒情性豊かで繊細な誌面構成となっており、都市部の女学生に強い支持を受け、女学生の必需品といわれるまでに愛読された。情報源の少なかった当時、様々なブームがこれら少女雑誌から生み出される。美しいカラーイラストや人気作家の少女小説に読者は夢中になり、掲示板コーナーや読者集会では読者同士の交流が深められた。女学生には読書好きが多く、さまざまなジャンルの作品が読まれたが、特有のものは、少女向けに書かれたいわゆる少女小説で、多くの少女たちが胸を躍らせた。

 多くの女学生にとって、親しい仲の相手との手紙のやりとりや贈り物による交際は、非常に重要なものであった。友達関係、エス、恋愛、将来の進路などの心配があった。特に親しい上級生と下級生の関係はエス(sisterhood)と呼ばれ、とりわけ親密で擬似的な姉妹関係で清らかで美しい精神的な絆として持て囃された。少女小説においてもロマンティックに描かれ、女学生文化として広がっていった。雑誌ではこの愛をテーマにした小説は非常に人気があった。

 明治期、女学生は、教養ある女性を代表する存在で、時代風俗の象徴として注目されていたが、そのスタイルは変遷を極めた。明治18年(1885)に学習院女子で女袴が採用され、この女袴をお茶の水女子大学が採用したことで流行し、女学生の袴姿は数年のうちに全国的に普及することになり、明治30年代半ばに定着した。大正時代には女袴と革靴を履くスタイルがハイカラな女学生の定番となった。

 大正初期から婦人問題が社会の注目をひき、女性教育の導入とともに、女性の生活が変わり、楽しみも悩みも変化した。新たな時代の女学生には、新たな日常、 将来への希望にあふれていた。

 

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芸術鑑賞 光琳と宗達の《風神雷神図屏風》

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風神雷神図屏風
(約1100文字・購読時間1分30秒)

 江戸時代を代表する画派として琳派という人たちがいる。狩野派、土佐派など血縁や師弟関係でつながる画派とは異なり、私淑によって同系統の技法・画風、作品群を残した俵屋宗達尾形光琳酒井抱一などの総称である。それぞれ俵屋宗達(17世紀前半)、尾形光琳(17世紀前半〜18世紀前半)、酒井抱一(18世紀末〜19世紀前半)と活動期間が100年ほど間があり、互いに直接の面識があるわけではない。ただし、光琳宗達と一緒に活動していた本阿弥光悦の親戚であり、家に宗達の絵が多くあったため、見ることが出来た。また、光琳の活動拠点は京都であったが、江戸に出稼ぎに来ていた際に酒井家に仕えており、子孫の抱一は家に代々伝わっていた光琳の絵を見る機会があった。琳派は自由に画風をリスペクトして自らの絵に取り入れたものであり、派閥があったわけではなく、自ら名乗っていたわけでもない。琳派という名は後世の時代に名付けられたため、どこまでを琳派とするのかの定義は曖昧である。

 俵屋宗達尾形光琳の《風神雷神図屏風》の類似性については内藤正人『風神雷神図屏風展図録』(出光美術館、2006年)にて2枚の絵を重ねて見られる構成で、光琳宗達の絵を丁寧にトレースしつつ、自らの独自性を打ち出していると述べている。両者を比較してみると、その描写は光琳本が宗達本の表現内容を骨組みにおいて忠実に踏襲する一方、細部の描写にはかなりの相違がみられることがわかる。これが、光琳以降の琳派絵師が先人の作品を模倣する際に必ず行う、独自の新解釈である。伝統の踏襲と新たな創造への挑戦が、琳派絵師たちが自らに課した大きなテーマである。古画の模倣にあたっては決して忠実な再現に終始することなく、そこに必ず自らの解釈を取り入れて古画をアレンジして仕上げ、単なるき写しには終わらせない、古画の学習とその再生を同時に果たす、琳派の絵師たちの作画のあり方を示す。たとえ後継者を自称する画人たちが隔世の師への挑戦を繰り返してみても、結果的には尊敬する先輩を凌駕するのは並大抵のことではない。

 また新たな説として、奥井素子「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の模写工程の考察」(2010年)、「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の考察 : 光琳の改変を読み解く」(2010年)では、『北野天神縁起絵巻』(以下、絵巻)が光琳本の下絵として使用されたと述べている。しかし、絵巻に描かれているのは雷神のみで風神は描かれておらず、光琳本の風神が宗達本の風神に酷似している件についての説明はない。奥井素子氏の説には、風神の下絵の発見が必要となる。また、宗達が絵巻を見た可能性もあるため、絵巻の雷神と宗達本の比較も必要と考える。よって当該論文は、やはりまだ可能性の一つであり、内藤正人氏の図録の説が優位と見る。

 

参考文献

辻惟雄編『カラー版日本美術史』(美術出版社、1991年)

内藤正人『風神雷神図屏風展図録』(出光美術館、2006年)

奥井素子「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の模写工程の考察」2010年

奥井素子「尾形光琳筆『風神雷神図屏風』の考察 : 光琳の改変を読み解く」2010年

明治維新による教育の変化

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(約1000文字・購読時間1分20秒)

 明治時代以降の学校とは一定の教育目的を達成するために、継続的、計画的に教育活動の営まれる組織であり、教育をする者、教育を受ける者、および教育活動に必要な施設設備を中心に構成される。教育は、もともと人間のあらゆる生活活動のなかにいつも存在するものであり、人間が社会生活を始めて以来、今日に至るまで連綿と継続してきたものである。そのような教育は、社会生活の変遷を通じて、直接的、間接的になんらかの方向に無意図的に人間形成が行われてきた段階から、次第に一定の目的と形式のもとに営まれる意図的な形成作用を含むような段階にまで到達するようになった。なんらかの教育目的を達成するためには、一定の期間に、継続的にまとまった教育の行われる場を必要とする。その場は、教育目的がより能率的合理的に実現できるように、整った教授組織や学習計画をもち、それに見合った施設や設備が用意された。社会的作用・社会的活動としての教育は、個人、家庭、小集団、地域社会、国家社会などにもみられるが、現代では学校が教育制度の中核的役割を担っている。これが明治以降の学校である。

 江戸時代の寺子屋は百姓町人に対して、町や村に居住し家族を養うため家を持ち自立を促す政策が幕府によって進められた。家を守り、永続させるためには子どもを一人前の成人に成育させ、立派な後継ぎにしなければならない。読み書き算用を習得させたいという庶民の教育熱が高まり、寺子屋が津々浦々に誕生していった。幕府は関与しないため、寺子屋は許認可の必要なく自由に誰でも開業できた。就学の義務はないが、授業料を支払ってでも子どもに文字文化を習得させたい親の熱意によって支えられ、子どもを一人前の人間にするための教育システムであった。

 教育という事業が社会的に広く有用であると認められるようになれば、それが営まれることはしだいに社会的な慣行となって定着する。さらに社会の発展に伴い、より組織的体系的な教育が要求されるようになると、国家はそれに必要な法律を制定して、教育機関の設置や運営を図ろうとする。そのような教育の場が、現在の学校である。学校の発達する過程において、一つの学校だけでは社会の多様な教育要求を満たすことができなくなると、さまざまな教育目的をもつ学校が、さまざまな系統や段階に組み合わされて一つの学校体系を構成する。近年では小学校と中学校とでは、学校教育に対する保護者の期待の構造が異なっている。中学校よりも小学校の保護者のほうが多様な期待をもつ傾向があり、逆に、中学校の保護者は焦点を絞った期待をもつ傾向にある。

 

江戸の教育力 近代日本の知的基盤 | 大石 学, 東京学芸大学出版会編集委員会, (表紙デザイン)正木 賢一 |本 | 通販 | Amazon

巫女の口寄せ

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恐山

(約850文字・購読時間1分10秒)

 巫女とは神社で神楽や湯立てに奉仕するうちに祭神の憑依によって神託を述べる神社巫女と、口寄せという神仏、生霊、死霊などの憑依をうけ、託宣を行う憑依巫女に大きく分かれる。同じ憑依巫女でも日本各地で名称が違い、東北を中心としたカミサマ、イタコ、沖縄のユタ、ノロなどがいる。東北地方を代表するイタコなどは活発に機能し、地域住民の信仰的要求にこたえている。本来のイタコの仕事は、自分の担当地域を巡り歩き、農作物の予想、住民の健康や運勢を占うなど、地元密着のアドバイスを行う仕事であった。神霊の憑着による託宣を神口、行方不明となった生者の口寄せもする場合は生口と称する。これに対し死霊の場合を死口と区別し、巫法に若干の違いをみせている。

 もっとも広く、また活況を呈するのは死霊の口寄せで、北は青森県から南は沖縄にいたるまで分布する。今日まで残る有名なものはイタコは、日本の北東北で口寄せを行う巫女である。日本3大霊場の一つである恐山は、死者の集まる山と言われており、その寺の境内でイタコが口寄せを行うことでも有名で、親族の死者の言葉を子孫たちに伝えるものとして知られる。東北地方の民間巫女はもっぱら死口を業とするが、死後の期間によって新口寄せと古口寄せの二つに分ける。前者は死後100日までの新ボトケを対象とし、その新ボトケが肉親、縁者、知友に語りかけるという方式で展開する。後者は100日を超えた古ボトケをよび出すが、その際、家の祖先の知るかぎりのホトケが順次に現れ、それとの対話をこころみるしかたとなる。したがって前者がその死の直後、初七日か四十九日までに施行されるのに対し、後者は年忌とか盆・彼岸を期して行われ、それを年忌口・彼岸口などとよぶ。幼児の死、不慮の災害による非業の死者については特別念入りの口寄せを実施する。僧侶の読経だけでは足りず、死者の言葉を聞きたいという思いが、成仏、供養のねらいであった。民俗学・人類学でいうシャーマニズムの一例であり、現世と他界とのコミュニケーションの一形態といえる。

 

参考文献

川村邦光『弔いの文化史』中央公論新社、2015年

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